「かかしコンクール」が、駒場の地で行われるようになるまでには、複雑な事情がありました。
その経緯を追ってみましょう。
(この記事は、「かかしコンクール30回」開催を記念して駒場住区広報紙「駒場野110号/2011~114号/2013に掲載されたものです)
揺籃期・ようらんき
それは、現在の駒場野公園一帯に置かれていた東京教育大学(現:筑波大学)の移転計画に端を発します。
1977年(昭和52年)、区内全域にわたる人々が「筑波研究学園都市移転跡地確保目黒区民連盟」を結成し、署名運動などを行い、国(国有財産中央審議会小委員会)に対する文化的な跡地利用の要請を続けていました。
その一方で、目黒区と東京都との協議により、翌年には国に対して公園及び都立高校(現:国際高校)設置という計画案が提出されました。
なお、それ以前より、当時の東京教育大学附属駒場中・高等学校(現:筑波大学附属駒場中・高等学校)は、教育上の見地から、ケルネル田圃の存続について国等の関係部門に要望書・陳情書を提出するなど、独自の働きかけをしています。
1978(昭和53)年、国有財産中央審議会筑波移転跡地小委員会が「跡地は公園及び高校用地とし利用することとし、公園の一部を体育館用地として差し支えない(水田・池はなるべく保存)。また、一部分を大学入試センター用地として活用する」という試案を発表しました。
この試案を基に1980(昭和55)年に国有財産中央審議会から大蔵大臣への最終答申がなされました。それを受けて、国は大学入試センター、東京都は都立高校、目黒区は区立公園を設置するべくこの跡地を三分割して使用することとなりました。全面地元開放という目的は達成されなかったものの、区民上げての運動に目星がついたといえます。目黒区は大学入試センターについて納得し難かったらしいのですが、妥協点が見出せないまま、最終的には譲歩し、同意することになったようです。
1981(昭和56)年、目黒区は区立公園の計画を具体化するに当たり、周辺の道路事情解消のため、幅8メートル程度の道路を周辺に整備する必要があることを案として表示しました。すなわち、ケルネル田圃を潰し、世田谷区(池ノ上方面)に抜ける道路建設を提案したわけです。地元としては、由緒あるケルネル田圃を壊し、道路を建設するなど、とうてい認めることができるものではありませんでした。
当時の東京教育大学農学部駒場キャンパス校門
東京教育大学農学部時代(昭和11年)のケルネル田んぼ風景
揺籃盛期・ようらんせいき
1982年(昭和57年)にコミュニティー組織である「駒場住区住民会議」が発足しました。東京教育大学跡地の自然を守る請願署名運動を開始、請願書を国会に、陳情書を目黒区議会に、要望書を目黒区長に提出するなど、積極的に運動を展開しまた。 同年11月になり、目黒区建設委員会が「道路の工事使用については地元周辺の住民と充分協議をして進める」という方針を出し、基本的環境調査を実施しました。これらを踏まえ、この大切な田圃を存続させるためには地域住民に目を向けてもらうことが必要と考え、駒場住区でのかかしコンクールが始められたといわれています。
このかかしコンクールの発案者は、当時広報部に所属していた故・平田穂生氏(アゴラ劇場、平田オリザ氏の父上)でした。この案を進めたのはまちづくり部会長の故・後藤均平氏(元立教大学教授)であり、実施にあたっては部員の方達が中心となって東奔西走したそうです。
同年、駒場公園で行われた「第6回目黒区民祭り駒場お祭り広場」の中で、第1回の「かかしコンクール」が開催されました(右写真)。当公園内にある木の杭を利用して、かかしは取り付けられていました。また、「ケルネル田圃かかしコンクール」という看板が広場入り口に立っています。お祭り広場の中央の大きな木の下には「ケルネル像」が鎮座していました。この当時、本郷東大農学部建物の片隅に、埃をかぶって埋もれていたケルネル先生の像を後藤氏が見付け、特別に許可を得て借り出し、会場に設置したものです。ケルネル先生に特に縁あるドイツ大使館からは、担当者が参加してくれました。
1983(昭和58)年5月には、目黒区北部地区4住区住民会議による「教育大跡地利用地区協議会」が発足し、跡地利用についての勉強会が開かれ、公園施設等について検討が行われました。同年秋に、第7回「駒場お祭り広場」が開催され、2回目のかかしコンクールも同時に行われました。この年から「かかし」の展示は、鉄パイプを使ったひな壇形式となり、かかしはひな壇に飾られました。この年のかかし出展数は28体、どれも大変ユニークなかかし達でした。
1984(昭和59)年、2月から7月にかけて目黒区と地元との公園検討会が行われ、公園整備の具体的内容が決定されました。長い歳月をかけて育まれた自然を守りたいとの思いが功を奏し、この時点で現在のケルネル田圃と古池の造成が認められることとなりました。秋には3回目のかかしコンクールが開催されました。この年のかかし出展数はなんと42体、パイプひな壇に並びきれず、木の杭を打ってかかしを飾りました。その後撤去したかかしは、ケルネル田圃に運ばれ、畔道に飾られました。稲の刈取りが済んだ後、かかしを燃やし、さつま芋を焼いて楽しんだそうです。以後、この焼き芋は現在まで続いています。
この年、駒場農科大学付属農教の卒業生である古谷春吉先生(故人)が、かかしコンクールに招待され、その実施内容を詳細に「駒場水田の誌」の中に書き残してくださいました。現存する貴重な資料です。
ケルネル像と第1回かかしコンクール(1982年)
かかしサヨナラの集い
円熟期・えんじゅくき
1984年から2年をかけて、「駒場野公園」の建設工事が行われました。1986年に公園が完成し開園したことから、駒場公園で4回開かれたかかしコンクールは駒場野公園に会場を移し、以後現在に至るまで、「ケルネル田圃」において開催されてきました。
コンクールの歴史の中で特記しておきたいことがあります。昭和天皇崩御により、1989年の「駒場お祭り広場」は中止となりましたが、「かかしコンクール」は例外として執り行われました。この頃までがかかしコンクールの揺籃期と云えるでしょう。
「駒場お祭り広場」も1997年にその名称を「駒場住区まつり」に、2000年には町会との共催となって「こまばのまつり」へと名称を変更しましたが、かかしコンクールはそのまま継続されました。その間、群馬県富士見村・長野県和田村の参加を得て「こまばのまつり」も一段と発展しました。
かかしコンクールを実施してきたまちづくり部が2009年の住区住民会議組織変更で廃止となり、新たに発足した「かかしコンクール実行委員会」が担当することになりました。都会と農村を結び、日頃食べているお米に対する関心を養い、また、かかし作りを楽しみ、そして人と人との絆を醸成することができたことは、駒場の大きな財産となりました。ケルネル田圃を縁として長年ご協力いただいているドイツ大使館・前橋市富士見町、並びに東京都農業協同組合中央会・筑波大学附属中・高等学校、そして目黒区に対し深く感謝いたします。
駒場の文化の一つと言っても過言ではない「ケルネル田圃かかしコンクール」が、末永く発展・継続していくことをひたすら願う次第です。
2018年、第37回「こまばのまつり」と「かかしコンクール」開催
ケルネル田んぼ入り口
ケルネル田んぼとかかし展示風景